新1万円札の顔に
なぜこれまで、渋沢のような功績者が我が国の紙幣の顔に採用されていなかったのでしょうか。これには、偽札防止のためにはヒゲが生えている必要があったからであるといわれています(もっとも、現1万円札の福沢諭吉もヒゲを貯えてはいませんが。また、渋沢は既に、1902年から1904年にかけて大韓帝国で発行された初期の第一銀行券の一円・五円・十円券の顔には使われています。)。
しかし、紙幣発行の技術が高まり、女性であっても紙幣の顔に採用(神功皇后を除けば、樋口一葉が女性最初のお札の顔として採用)されるようになった今日、ヒゲを貯えていない渋沢であっても、紙幣の顔に採用することが可能となったということでしょう。
渋沢は、我が国の管理貿易(鎖国)から明治政府のもとでの市場開放に尽力し、多くの有名企業やNPO団体の創設に携わったわけですが、上記のとおり、彼が、大蔵省の官僚として辣腕を振るっていたことも忘れてはなりません。
紙幣寮の責任者として
ところで、明治維新後、新政府も諸藩も財政に苦しんでいた中、貨幣の品位は旧幕時代にも増して低下し、藩札・府県札・太政官札・民部省札など、不換紙幣が大量に発行・流通していました。粗悪な印刷の紙幣は贋作も作りやすく、このような状況はインフレを助長するだけでなく、紙幣流通そのものを混乱させていたわけです。
そうした中で、かような混乱を終息させるべく、大蔵省は紙幣の統一を目指し、1870年(明治3年)、ドイツに紙幣印刷を依頼し、「ゲルマン紙幣」とも呼ばれる新紙幣を発行しました。新紙幣は当時としては精巧な印刷で贋造困難なもので、政府は世に流通していた粗雑かつ贋造品も混じっていた藩札などとこれを交換し、紙幣の統一を図ります。この時の紙幣寮(現在の財務省印刷局の前身)の責任者が、初代紙幣頭(長官)であった渋沢栄一です(前掲早稲田ウィークリー参照)。