令和6年より紙幣が刷新され、そこでは、千円札の図柄は北里柴三郎、5千円札は津田梅子、1万円札は渋沢栄一になることが決定しています。新紙幣には最新の偽造防止技術などが用いられることとされていますが、印刷技術の発達した現在の我が国では非常に精巧な紙幣が発行されることから、幸いなことに偽札が流通することは滅多にありません。しかしながら、まだ国家の揺籃期であった明治時代など、政府が偽札対策で手を焼いていた過去も存在します。今回はそうした明治政府の貨幣政策を中心に、新1万円の顔である渋沢栄一にスポットライトを当ててみましょう。

渋沢栄一の偉業

これまで慣れ親しんできた1万円札の顔は福沢諭吉でしたが、偽札防止のためにも、一定の期間を過ぎると、改めて紙幣を作り直す必要がありましょう。令和6年からは1万円札の顔が渋沢栄一になります。

渋沢は、日本の近代資本主義を作り上げた功績を持ち、「日本の資本主義の父」とも呼ばれる偉大な経済人ですが、彼の経歴は一風変わっています(以下、早稲田ウィークリー「日本の通貨はなぜ『円』」なのか 大隈重信と新1万円札・渋沢栄一」2019年10月21日号も参照)。

渋沢は埼玉県の農民出身で、一時期は尊攘派の志士として活動しましたが、一橋慶喜に仕官して幕臣となります。パリ万博を契機として、徳川昭武の留学に同行し、倒幕により帰国。帰国後、慶喜を慕って駿府に赴いたものの、駿府藩への仕官は断り、同地で「商法会社」という民間の商会を創設し、その頭取となりました。その後、1869年(明治2年)、わずか29歳の頃、新政府から出仕命令が下り、大蔵省租税正(租税司長官。現在でいうところの財務省主税局長)に任命され、大隈重信や伊藤博文、井上馨らと共に日本の財政に携わりました。

渋沢の生涯の業績を数え挙げればキリがありませんが、例えば、第一国立銀行(現みずほ銀行)や、七十七国立銀行など多くの地方銀行の設立に携わったほか、東京瓦斯、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、田園都市(現東急)、東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)、帝国ホテル、サッポロビール、キリン麦酒、東洋紡績(現東洋紡)、大日本製糖、明治製糖、秩父鉄道、京阪電気鉄道など500以上にも及ぶ企業の設立に関わっており、今日の日本を牽引する多くの企業の礎を築いています。

また、東京証券取引所や理化学研究所の設立にも関わるとともに、教育界では、商法講習所(現一橋大学)、学校法人国士舘、大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に関わり、二松學舎(現二松学舎大学)舎長を務めています。ほかにも、東京養育院(出典:杉山博昭『渋沢栄一に学ぶ福祉の未来』26頁(青月社2019))や、中央慈善協会、盲人福祉協会などの社会福祉施設、日本赤十字社、聖路加国際病院、済生会、慈恵会、癩予防協会などの設立に関わるなど、福祉や慈善事業にも様々な貢献をしています。

なお、渋沢は1926年(大正15年/昭和元年)と1927年(昭和2年)の二度にわたってノーベル平和賞の候補にもなるなど(出典:境新一「近代日本におけるプロデューサーとしての渋沢栄一―公利公益の哲学とその意義に関する考察―」成城経済研究201号50頁(2013))、正に日本の基礎を作り上げた一人といえましょう。