所得税法73条⦅医療費控除⦆は、「診療又は治療」に要した費用の額が医療費控除の対象となる旨規定します。そこでは、何が診療又は治療なのかという概念の理解が問題となることが多々あるところ、そもそも、診療や治療の対象とされている症状が、果たして「疾病」に当たるのかという点が論じられることも多く見受けられます。今回は病気の認定に着目してみましょう。
もの書きの宿命

筆者もそうですが、ものを書くことを仕事とする者は常に〆切に追われています。
野坂昭如のように疾走する小説家もいます(校條剛「野坂昭如『疾走』事件始末」左右社編集部『〆切本2』150頁(左右社2017))。
野坂は、まるで、試験が近づくと決まって病気になる子のように、「編集長以下必死の形相裂帛(れっぱく)の気合で催促」を受けていたら、事故で右手の小指を折ってしまい、「折れちゃった、書けないよ」と告げたという経験を披露しています(野坂「吉凶歌占い」左右社編集部『〆切本』104頁(左右社2016))。
井上ひさしは、「缶詰病」という病気を併発する旨述べています。同氏によると、この病気は、「特別の場合を除いて『死ぬ』というところまでは立ち至らないが、この病いは風邪に較べれば傍迷惑の度合いが著しく、腹痛や下痢と比較すれば、より長期間にわたり、盲腸手術程度の金もかかる。」といいます。
彼に言わせれば、「風邪や腹痛や下痢よりも重く、盲腸とは同程度の、そして腸捻転や肺結核よりは軽い、一種の職業病」だというのです(井上「缶詰体質について」前掲書141頁)。
浅田次郎は、「書斎症候群」なる造語を作り、100万人に1人くらいの奇病に罹患している旨論じます。これは、いわゆるエコノミークラス症候群のことのようですが、正しい病名は「深部静脈血栓症」ということで、「表面上は、下肢のむくみや表面の静脈が浮き上がって見える以外、強い痛みや発赤(ほっせき)などの静脈炎の症状を呈さずに下肢や骨盤内部の静脈内に血栓が知らないうちに形成されている病態」と紹介しています(浅田「書斎症候群」『〆切本』156頁)。
これらの「病気」の診療や治療に要した費用のうち、いずれが医療費控除の対象と認められるのかは判然としませんが、「殺してください」という井上ひさし(井上・前掲稿143頁)や、不眠症と厭世観に苛まれていく柴田錬三郎(柴田「作者おことわり」前掲書347頁)のような大作家もいるのです。
上記のような症状は、大作家らしい冗談半分かとは思われますが、ノイローゼなどから、小説家の中には精神疾患を患う者も少なくないと思われます。
病気か仮病か
他方、病臥であると主張しても、それが本当の病気かどうかの判別を付けるのはいささか難しいものです。
梅崎春生の場合は、その辺り、やや怪しいものを感じます(梅崎「流感記」前掲書197頁)。
「ほんとだよ」
私は努めて弱々しい、かすれた声を出した。
「見れば判るだろ」
「熱は?」
「うん。熱は8度7分ぐらいある」
7度5分などと本当のことを言えば、たちまち起きて書くことを強要されるにきまっているから、とっさの機転で1度2分ばかりさばを読んだ。
梅崎のようなやりとりがあればまだしも、医学の素人が、病気・疾病であるか否かを判断することはなかなか難しいものがあるのではないでしょうか。
すなわち、診療又は治療のために要した医療費の判断を、課税当局者が行うことには限界があるといえましょう。
何が医療費控除の対象となる「医療費」なのかについては、いっそのこと、厚生労働行政の分野で判断すべきであって、処方箋基準を設けるなどの外形的あるいは形式的判断ができる制度が構築されるべきであると考えるところです(酒井克彦「医療費控除の解釈における素人判断の排除とデマケーション–所得税法に規定する医療費控除の意義と射程範囲」国士舘法学38号33頁(2006))。