国会議事堂の階段を上ると中央広間に突き当たります。中央広間の四隅には銅像が立っていて、1人目は伊藤博文。2人目は大隈重信。3人目は板垣退助です。そして銅像のない台座が1つ置かれています。4つ目の台座が空だったのを見て、田中角栄は「いずれは自分がそこに立つ」と密かに心に秘めたといいますが(石原慎太郎『天才』39頁(幻冬舎2016))、今回は田中角栄にスポットを当ててみましょう。
田中角栄と大蔵省
伊藤博文は千円札の顔となり、板垣退助は百円札の顔となりました。ところが大隈重信はお札の顔になっていません。「円」という通貨の誕生に大きく関わった大隈重信の10万円札運動などもありましたが、その計画は頓挫しています(平成31年4月9日付けJ-CASTニュース)。
紙幣といえば、令和6年度上半期から、福沢諭吉に代わって、渋沢栄一が一万円札の顔として登場しますが、渋沢栄一はかつて大蔵省において役人として功績を残したことでも有名です(この辺の事は、本コラム「納税のための貨幣〔後編〕:偽札と渋沢栄一」で取り上げています。)。
いずれにしても、これらの偉人が皆紙幣の顔となるレベルの偉大な政治家であることに異論はないところですが、田中角栄もまた、近代日本史に名を残す政治家であり、大蔵省との関わりも深い人物です。
周知の通り、田中角栄は、佐藤内閣の時に大蔵大臣を務め、辣腕を振るいました。例えば、山一証券の倒産を回避し、証券不況を未然に防いだ功績なども有名です(早野透『田中角栄〔第8版〕』175頁(中央公論2013))。
また、蔵相であった田中角栄は、大蔵官僚が作成した税制改正提案の税率表に誤りがあることを国会で詫びたことがあります。官僚の犯したミスを責め立てることなく、国会において堂々と詫びを入れたとして、彼の人柄を表すエピソードの1つです。