絵画や彫刻といった芸術の世界では、「無題(untitled)」という作品が多々あります。これは当時の芸術思想・芸術運動に由来するものといわれていますが、文学の世界でも「無題」という作品が存在します。実は、我が国には題名なき法律が存在するのですが、現在そのような「無題」の法律はどのように取り扱われているのでしょうか。今回は「無題」を考えます。
ダダイズムと「無題」
中原中也の詩に「無題」という題名の作品があります。
これは中原がダダイズムに影響を受けたことに由来するのではないかといわれています。
ダダイスム(仏: Dadaïsme)とは、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動ですが、第一次世界大戦に対する抵抗から生まれたこの思想は、既成の秩序や常識、慣習といったものを破壊する志向のあった思想です。
そうしたなか、題名が作品に対する印象を決定づけてしまうことに抵抗して、「無題」とする作品が増えたとも考えられます。サルバドール・ダリ(Salvador Dalí )にしても、マン・レイ(Man Ray)、ジョアン・ミロ(Joan Miró)…多くの作家が「無題」という作品を残しています。
このように絵画では作品に題名を付さない「無題(untitled)」という作品が多く、絵画のみならず彫刻にも「無題」という作品は多数あります。それに比して、文学はどうでしょうか。
上記の中原の作品や、坂口安吾「無題」(『坂口安吾全集01』筑摩書房1999)に代表されるようなものはありますが、文学での「無題」は少ないように思われます。
視覚から入る絵画や彫刻は、ダイレクトな印象を重んじた表現形態であるのに対して、文章での表現、すなわち文学は、読み手側が作品と付き合う時間をある程度求めるものですから、題名による印象付けが決定打となるおそれが少ないのかもしれません。
題名なき法律
ところで、法律にも題名のないものがあります。
現在では、法令には、原則として題名が付けられることとなっており、少なくとも、法律及び政令にはすべて題名が付されていますが、昭和22年ごろまでは、既存の法律の一部を改正する法令、一時的な問題を処理するために制定される法令、内容の比較的重要でない法令、簡潔な題名を付けることが困難な法令等については、題名が付けられないことも少なくありませんでした(法制執務研究会『ワークブック法制執務〔新訂〕』139頁(ぎょうせい2007))。
当時制定された題名のない法律のいくつかは、今日においても現存しています。例えば、現存する「昭和22年法律第82号」を官報で見ると、「朕は、帝國議会の協賛を経た國会予備金に関する法律を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」という公布文、御名、御璽、大臣名及び「法律第八十二号」という記載に続いて、「第一條 各議院の予備金は…」となっており、題名が付されていません。
このような題名のない法律の呼び名はどうなるのでしょうか。
法律には「平成×年法律第△号」といった法律番号が付されているため、この法律番号で呼べばよいようにも思われますが、これだけではその法律がどのような内容のものであるかわかりづらいでしょう。
そこで、このような法律にあっては、「件名」といって、法律の公布文に引用されている字句をその法律の名称として用いることとしています。前述した昭和22年法律第82号の件名は「国会予備金に関する法律」です。
題名がなく、「朕決鬪罪ニ關スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」という公布文がある明治22年法律第34号の件名は「決闘罪ニ関スル件」とされています(滝川雄一「立法と調査」226号)
芥川賞候補であった石黒達昌の作品に、『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、』という書籍があります。これは、もともと題名なしで発表され、単行本化に際して作品の冒頭を題名にしたようですが、これに似ているようにも思います。
ダダイズムは、いわば題名が及ぼす作品に対する予見可能性を排除することを目的に、絵画や彫刻に「無題」を採用したのでしょうけれども、法律の世界では予見可能性は極めて重要ですから、「無題」たる法律は認められないということでしょう。